初詣や二年参りに意味はあるのか?

初詣や二年参り




一年の感謝と新年の平安を願う

2017年も年の瀬。まわりでは初詣や二年参りの話題がちらほら聞かれるようになった。年初はどこのお寺も神社も参拝客で賑わうのだろう。元は宗教的な意味のある行為だと思うが、すっかり世間では一般行事として定着しているこの初詣と二年参りについて改めて考え直してみたい。

初詣や二年参りの意義と問題点

そもそも何のために初詣や二年参りをするのかと言えば、冒頭の通り一年の感謝と新年の平安を願うためなのだろう。しかし、仏教徒がお寺に参拝し、神道の人が神社に参拝するのならばよいが、とくに宗教を持たない人がこんな時だけ神仏を頼り寺社で祈りを捧げるというのは少し虫が良すぎる気もする。

まあ宗教を持たない人であれば平穏無事などのあいまいな願いなら、かなわなくとも「まあそんなもんか」と諦めることができるし、たとえ、病気や事故にあったとしても神仏や寺社のせいにすることはないだろう。

また、寺社からしても、信者ではないからと言って参拝を断るようなことをする意味もない。願いや祈りを捧げるのは自由である。

ただの年中行事の一つとして個人で楽しむ分には問題ないだろう

しかし、問題なのは受験合格などの具体的かつ重要な願いや祈りをする場合である。これには他に恋愛成就や病気の回復なども該当する。

この場合、無事に成就すれば何の問題もないが、問題になるのは成就しなかった場合である。

成就しなかったからと言って、寺社にクレームをいれたり訴えるようなことはしないと思うが、寺社に願いや祈りを捧げることに意味がなかったことになる

そうなると、初詣や二年参りに限らず寺社に参拝することにどんな意義があるのか。

神仏に祈ることに功徳はあるのか

結論から言えばない。

有名な中国の梁の武帝と達磨との問答を引き合いに出します。

武帝「朕は即位以来今日まで、多くの寺院を造り、経巻を書写し、また僧尼たちを度してきた。これらの行為には、いかなる功徳があるであろうか?」

達磨「無功徳」

武帝「最高第一の真理とは何か?」

達磨「廓然無聖(かくねんむしょう)」(あけっぴろげで、がらんとしていて、そんな最高も糞もあるものか)

武帝「しからば問う。朕に他する者は誰ぞ」

達磨「不識」(さあ、知らんね)

新潮文庫 ひろさちや著「しあわせになる禅」より

達磨は武帝に失望し去って、面壁九年の座禅をしたと伝えられています。

武帝のようにどんなに立派な行為をしようとも見返りなんてない、正確には見返りなんて求めるなということを言ったものだそうです。

意訳すると、見返りなんて求めずにもっと楽しんでやったらどうだい、となるのです。

初詣や二年参りも同じです。功徳を求めて行うべきではなく、初詣や二年参りを素直に楽しんで行った方がよいのでしょう。そうでなければ、我々も達磨さんに失望されてしまいます。

宗教は基本的に神仏にお願いごとをするなと教えている

鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵上人も「栂尾明恵上人伝記」(巻下)のなかで、同じことをいっています。

ある人が自分のために特別な祈祷をしてくれと明恵上人に頼んだ時、彼はにべもなくはねつけています。彼の言い分はこうです。

わたしは朝夕、すべての人々のために祈っている。そなたもその中に入っているから、わざわざそなたのために特別に祈る必要はない。

あなたの願いがかなえられるものであれば、特別に祈らずともかなえられるであろう。かなえられぬものであれば、仏の力で持ってもどうすることもできぬ。

そのうえ、生きとし生けるものすべて平等であれと願う心に反して、そなたの願いばかりを祈るのは、えこひいきである。

現代語訳は、ひろさちや著「下りる。」より引用

仏様は生きとし生けるものすべての願いを平等にかなえておられるわけですから、自分だけの幸せを願い祈る行為には意味がないことになります。

しかし、どうしても苦しいときや、かなえたいことがある時は、祈らざるを得ない時が人間ならあります。そんな時はどうしたらよいか、旧約聖書に面白い話がありました。

 

旧約聖書:サムエル記・下12

ダビデという王がいて、相当なワルだったそうで他人の妻を横取りし、子どもが生まれたその不義を隠すために、旦那を戦死するように仕向けたのです。これが神の怒りを買い、神は彼の生まれたばかりの子どもを病気にしてしまいます。

明日をも知れぬ命のわが子のためにダビデは断食して神に祈りを捧げます。地面に横たわり真摯に徹夜して祈り続けますが、七日目にその子は死んでしまいます。

わが子の死を知ったダビデはどうしたか? 彼は起き上がって、身体を洗い服を着替え、さっさと食事の用意をさせたそうです。

なんとも現金な態度ですが、彼はもう断食しても何の意味もないと開き直ります。

普通であれば、こんな態度は許されるはずがない、神もお怒りになるだろうと思うところですが、神はダビデを是とされます。

その証拠として、神はダビデの次に生まれた子(ソロモン)を愛されたということを、預言者を通して示されたのでした。

 

この話は神に祈ることの無意味さと、どんな結果であれ神の下した決定を受け入れることの大切さを教えてくれています

つらく苦しいときには祈らざるを得ないから祈りますが、それを神が聞き届けてくれるかは別問題です。

初詣や二年参りも同じです。お賽銭を入れて祈ったからと言って願いを聞き届けてくれる都合の良い神様などいないのです。もし、それでかなうのであれば、その宗教はちょっと怪しいと思った方がいいですね。

※ちなみに、神道のような八百万の神の場合、全知全能の万能神など存在しないので祈ったところで、かなう保証がそもそもありません。

 

身勝手な人間

神仏に祈ることに特に意味はありません。そんなことをしなくても、神仏はすべての生きとし生けるものに平等だからです。だから、初詣や二年参りもそのつもりで、単純にそれを楽しんでやればいいのです。

そう分かってはいるのだけれど、人間は身勝手な生き物です

どうせ初詣や二年参りでお祈りするのなら、願いはかなってほしいと思いますし、もしもかなわなかったのなら、あの寺(神社)はダメだなどと勝手に寺社の善し悪しを評価してしまいます。これではどちらが偉いのか分かりませんが、よく聞く話です。神様や仏様からしたら言いがかりもいいところです。

私の知人にも、どこどこの寺に誰それが病気の快復を祈ったが結局死んでしまった、あの寺には行かない方がいいという人がいます。私自身も、達磨や明恵上人、ダビデのお話を知っていたにもかかわらず、良くないことが多かった今年を振り返ると、あの寺に二年参りをしたのが良くなかったのかなどと思ってしまいます。

良いことが起きれば自分の努力や行いが良かったからだと神仏に感謝せず、何もなければ何も気にしない、悪いことが起きれば神仏のせいにする。本当に身勝手です。私もこれは反省したいと思います。

では、このように身勝手な考えに陥ってしまう背景は何なのでしょう。次はこのことについて考えたいと思います。このまま流れに流されて初詣や二年参りに行こうものなら、また同じ過ちを犯してしまいそうです。

 

信用できる寺・神社

繰り返しますが、神仏に祈ることに特に意味はありません。しかし、人は都合の悪いことが起きると、特に神仏を信じていなくてもそのせいにすることがあります。まあ、信じていないのだから実体のない神仏のせいにして自分の気持ちを整理する分には、誰かのせいにして八つ当たりするよりはマシでしょう。

問題は実体のある寺や神社のせいにする場合です。八つ当たりや言いがかりには違いないのですが、残念なことに本当に寺や神社のせいだと思えてしまう事態も存在します。

 

某有名な寺の噂

今から20年くらい前に文藝春秋という雑誌に掲載されたくらいだから信憑性は高いと思いますが、某寺の住職の聖職者らしからぬ行為を批判する記事が掲載されました。

詳細は忘れていしまいましたが、印象に残っている内容は、住職がフェラーリに乗り他人の車にバックでぶつかったにもかかわらず、そのまま無視して走り去ったという話でした

実際、今でもその住職の住んでいる場所にあるガレージにフェラーリはあります。イタズラされるらしく、普段は普通車の後ろに停めてあまり目につかないようにしてあります。

フェラーリを所有するくらい、個人の趣味だと言えばそれまでですが、仏教徒であることを考えれば必要ないという意見ももっともだと思います。

問題はモラルの方です。文藝春秋には他にもいろいろ書かれていたように思います。

あと賛否の分かれる話としては、あるお坊さんはキャバクラの常連らしいという噂があります。

こういった噂を聞くと期待してはいけないのですが、どうも御利益や功徳は期待できそうにありません。むしろ、悪いことが起きたらやっぱりなという感じです。

 

お寺の現状

本当の仏教徒なら坊主が何をしていようが関係なく、信仰にしたがってただ祈ればよいだけなのですが、私のような凡人には難しい。余計な感情が入り込んでしまいます。

それもそのはず、某寺は何百年の歴史をもつ由緒あるお寺なのです。これは事実であり、現状がどうであれ信用してしまうのが普通の人情です。こうしたことは、この某寺に限らず日本全国でそうなのでしょう。

ここでこのような状況を批判したキツイお言葉を紹介します。

三笠書房の知的生き方文庫より志村武著「『釈迦』の遺言」からの引用です。

…しかし、今日の日本全国に見られる大半の僧は、「ちょっと見では」僧であっても、残念ながら、内容が外見とまったく一致していない。

脱税坊主、遊行坊主、怠惰坊主、無学坊主、打算坊主等々、外見だけでは僧でも、中味は俗人以上に俗悪無残なインチキ坊主がどれほどたくさんいることか。

もしも釈迦がこの現状を見れば、「全国の寺をぶっつぶせ」と叫ぶことであろう。

なんとも痛快な批判です。著者にしたがえば、いくら歴史や由緒があろうが寺など必要ないし、坊主のいうことなど信用ならないということになります。

我々も「ちょっと見」にだまされずに、本物を見抜く目が必要です。

 

お寺は仏教をモチーフにしたアトラクション

では、我々はどう対応したらよいか。一つの案は、お寺を仏教をモチーフにしたアトラクションだと思うことです。神社であれば神道をモチーフにしたアトラクションになります。

つまり、神社やお寺も商売であり、アトラクションを提供しているテーマパークに過ぎない。断じて宗教ではないと思うことです。

そう考えればなんら不思議なことはない。現在の「ちょっと見」お坊さんの人たちはお寺を見せ物にしてお金を稼いでいる商売人なのです

こういうことを言うと、批判が飛んできそうですが、祈りや願いの結果に一喜一憂して心を乱されるよりはマシです。宗教のあり方を語らないお坊さんの言うことなど聞いているヒマはないのです。

繰り返しになりますが、初詣や二年参りはアトラクションを楽しむつもりで行くべきです。お願いごとなどしてはいけません。不幸があって神仏・寺社のせいにするくらいなら最初から行かない方がいいのです



 

宗教のあり方(宗教観)

日本人は宗教オンチです。このことは別のブログでも書きましたが、結局この結論に至ってしまいます。

宗教を理解していれば、初詣や二年参りの意味を問うなんてこともする必要がありませんでした。

アドラー心理学は宗教?

アドラー心理学は宗教だという誤解がとけないワケ

2017年12月15日

宗教オンチについては上記のブログでちょっと語っていますので興味ありましたらお読みください。

ここでも、もう少し宗教オンチについてふれておきます。

某寺は無宗教?

上記で取り上げた某寺ですが、その寺は「無宗教」なので誰が参拝してもいいんだと言う人がいます。他に、神道の人でも某寺には参拝してもいいという話も聞いたことがあります。

しかし、実際どうなのか知りませんが、少なくとも某寺のHPに無宗教などとは書かれていません。

替わりに書かれているのが「無宗派」であるということです。無宗派が良いかどうかはともかく、「無宗派」と「無宗教」では意味が全く異なります。だが、本気で間違えている人が結構います

「無宗教」の寺などあり得ません。それはもはや寺ではありません。もしかして、上記で紹介したように寺がただのアトラクションだと気づいて批判的に言っているのかとも思いましたが単純に勘違いしているケースが多いです。

こんな間違いをするなんで、宗教がなんなのか理解できていないからでしょう。

日本人の宗教は世間体?

最近ツイッターで見かけた言葉です。結構有名な方のつぶやきで、日本人は無宗教じゃない、日本人は世間体という宗教を持っているというような主張だったと思いましたが、これもトンチンカンな発言です。

「世間体」を気にする行為は社会に対するただの構えの問題であって、宗教の問題ではない。善意に解釈すれば、おそらく「世間体」を「宗教」に例えることで、世間体に固執し振り回される人々を批判する意図があった発言だと思いますが、宗教を誤解しかねない言葉なのでそういう発言は慎んでほしいと個人的には思います。

宗教とは、人間の力の及ばない超常的な何かを信じることであり、その物語が存在するものです。世間体は所詮は人間のつくったものであり、全く宗教に当てはまりません。

 

この機会に宗教について考えよう

せっかくこの初詣や二年参りにいく機会に、信じる信じないは別として、宗教についてちょっと考えてみてはどうだろうか。特に縁起を気にする人や、何かかなえたいことがある人などは、よく考えてみる必要があると思う。

私の場合

私の例で恐縮だが、今回実際に体験したことをふまえて初詣や二年参りに自分なりの考えを持つことができた。

最初は私も初詣や二年参りについて深く考えてはいなかった。だから、社内行事として某寺へ参拝すると決まれば行くし、友達に二年参りに誘われれば某寺にも二年参りに行ったものだ。

しかし、某寺に二年参りを始めたここ数年で、自分の周りに大きな変化が起きた。仕事でうつ病手前までになるし、結局会社を辞めた。健康面でも「円錐角膜」という病気がひどくなり日常生活に影響をきたすくらい視力に悩まされるようになった。

まあそれでもおそらく某寺は全く関係ないと思うが、極めつけは、某寺に参拝したせいで変な霊をつけられて除霊してもらったという知人がいたことだ

そんな話、私は信じてはいないが、あまりいい気はしない。そして自分の境遇と合わせて考えてみると、某寺に参拝するのは辞めようと決めたのだった。

私は仏教のお話は好きだ。だから二年参りに某寺にも行ったが、残念ながら、某寺も含め本当に仏教を教えている寺はもうないのかもしれない。であれば、もうお寺は仏教をモチーフにしたただのアトラクションだと思うことにした。仏様に祈るだけならどこでもできるからだ。今後はどこのお寺に行ってもむやみに参拝はしないことに決めた。常識にとらわれず、自分で考えて行動することが大切だ。

最後にもう一つ釈迦の言葉を紹介します。

「自灯明・法灯明」です。

闇の中(現世)を歩くのに、自分自身を灯明とし、また釈迦の教え(法)を灯明としなさい。という意味です。自灯明が先なのがポイントです。自分自身の考え、決意が大事なのです。その次が法です。

さあ、初詣や二年参りをどうとらえますか?

自分自身の灯明で照らしたとき、初詣や二年参りの自分にとっての意味とは何なのか。

間違ってもその結果について、他人のせいにしたり、神仏のせいにしたりしないようにしたいものです。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

うつ病手前になって退職したり、会社から損害賠償求められたり、逆に精神的苦痛に対する慰謝料を請求したり、アパートの退去で高額の原状回復費用を求められたり、円錐角膜という病気になったり、そんな人生をブログにしてます。 現在は仕事を探している。 長野市で開催されるコンセプトカフェイベント「ルドロウキャッスル」を応援しています。