登った竿の先には何があるのか?
アドラー心理学は宗教だと言われることがあります。実際は違うのですが、考え方が似ている部分があります。今回はその似ている部分を取り上げてみたいと思います。キーワードは「竿頭進歩」です。
アドラー心理学と宗教の関係については前のブログで考えてみたので参考までに↓
「幸せになる勇気」からみるアドラー心理学
アドラー心理学の知名度を押し上げたベストセラー「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」から引用します。
ここでアドラー心理学のことをどう説明しているかというと次の通り。
わたしはアドラー心理学のことを、ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学であると考えています。
思想であり、哲学であると答えています。アドラー心理学の基礎講座応用編においてもアドラー心理学は「思想」だとテキストにありました。
ギリシア哲学と同一線上にあるとの認識は、おそらく「幸せになる勇気」の共著者の1人である岸見一郎氏の私見だと思われる。岸見氏の専攻は西洋哲学史であるからそのように断言したのであろう。
続いて、その心理の追及姿勢についての引用です。
真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている。(中略)そしてある人は、(中略)竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか?わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。
このように哲学と宗教の違い、ひいてはアドラー心理学と宗教の違いを説明しております。
宗教は竿の途中で飛び降りる、それはここが真理だと確信したからであり、そこから宗教の物語(神や仏)が始まるというのです。
そして哲学は永遠に歩き続けます。永遠に答えを求め続けるのが哲学だというわけです。
「百尺竿頭一歩を進める」
ここで、竿の上を歩くという表現を用いていますが、これは「百尺竿頭一歩を進める」という言葉からきているのかもしれません。語源は分かりませんでしたが、辞書に意味は載っていました。
「百尺竿頭一歩を進める」…すでに達し得た高い境地より更に向上しようとする。また、十分に言いつくした上に、更に一歩を進めて説明する。
岩波国語辞典 第5版
まさに永遠に答えを求め続ける姿勢をあらわした言葉と言えます。
禅の公案:竿頭進歩
これらの説明は流石なるほどなと思わせます。しかしここで仏教は、とりわけ禅宗においてはこの説明を聞けばちょっと待てよと言いたくなるのではないでしょうか。
禅のテキストと言われる古典「無門関」において竿の上を歩く「百尺竿頭一歩を進める」にちなんだお話が題材としてあるのです。
西村恵信著「無門関プロムナード」より原文の読み下し文を紹介します。
無門関 第46則 竿頭進歩
石霜和尚云く、百尺竿頭、如何が歩を進めん。又た古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、然(しか)も得入すと雖(いえど)も未だ真と為さず。百尺竿頭須(すべか)らく歩を進め、十万世界に全身を現ずべし。
これではあまり意味が分からないので現代語訳を以下に。
石霜という名の禅僧が「百尺の竿の先端まで登った人間が、そこからもう一歩を進めるにはどうすればよいか?」と問題を提起した。
それから古徳という名の禅僧が「百尺の竿の先端まで登ったが、そこにじっと坐っているようでは、悟りを開いたといってもまだ本物じゃない。その百尺の竿の先からもう一歩進めて、全宇宙にその存在を示さねばならぬ」と言いました。
(現代語訳は、新潮文庫ひろさちや著「しあわせになる禅」による。「無門関プロムナード」は訳書というよりは補足・背景説明が主なのでこちらを採用しました。)
仏教は竿の途中で飛び降りたりしない
現代語訳のとおり、仏教は悟りの境地を得るのが最上の目的ですから竿の途中で飛び降りたりはしないのです。それどころか、竿の先まで行ったさらにその先のことまで考えています。
アドラー心理学がその斬新な理論を用いて人類全体の幸福を求めて学習実践するのと同じように、仏教も永遠に悟りを求め続ける思想なのです。
岸見一郎氏はこの竿頭進歩の禅の公案を知っていたのでしょうか。それとも知らずにたまたま「竿」の比喩を思いついたのでしょうか。わかりませんが、少なくともこの哲学と宗教のたとえは仏教においては通用しないことになります。
他の宗教はどうなのでしょうか。他宗は詳しくはないのでわかりませんが、キリスト教で考えれば、この世のすべてのものは神のものであるという考え方がありますから、イエス・キリストは神の声にしたがって竿を途中で飛び降りたとも言えます。
竿の先には何があるのか
アドラー心理学も仏教も竿の途中で飛び降りたりはしません。しかも、仏教はさらに竿の先のことまで考えています。
しかし、竿の先にどのように歩を進めるのか、その方法までは書かれていません。それは各々が考えて答えを出さなければなりません。それが禅の公案です。
普通に考えたら、竿の先から一歩を進めたら落ちてしまいます。
ここで一つの答えを先ほどの西村恵信著「無門関プロムナード」から引用します。
百尺の竿頭に立った者が、さらにもう一歩を進めるということは、竿から飛び降りて死んでしまうことではなく、逆にせっかく苦労して登った竿のてっぺんから、惜しげもなくスルスルと地面に下りてくることでしょう。修行の苦労や悟りの誇りをあっさりと放り投げ、今は何ごともなかったようにふたたび世間のなかに入ってきて、和光同塵の生活を楽しむことであります。
「和光同塵」とは、仏・菩薩が衆生を救うため、自分の本来の知徳の光を隠し、けがれた俗世に身を現すことです。
この答えによりますと、竿の先まで到達したものはまた戻っていくことなります。そして和光同塵、つまりは衆生を救うために戻っていくのでしょう。
そうなるとアドラー心理学や哲学から見ると竿の先まで行ったとはいえ、意地悪く言えばやはり途中で飛び降りたのだと見なされても仕方ないのかもしれません。
しかし、意地の悪さでは仏教も負けていません。
もう一つ竿頭進歩の答えとして、先に紹介した「しあわせになる禅」の著者ひろさちや氏の解釈を紹介します。
すなわち、この「竿頭進歩」の公案は、
ーがんばるな!-
と教えたものだと。なぜなら、百尺竿頭を一歩前に進むとすとんと落ちます。落ちないで前に進むには、竿を下向きに進むことになります。それが「竿頭進歩」です。
そうだとすれば、登ってから下に降りてくるのだから、はじめから竿頭まで登らないでも同じです。つまり、がんばりにがんばって、竿頭まで行かずに、ゆっくり、のんびりと登って行けばいいのです。
なんとあろうことか、登っても登らなくても同じだとまで言い切ってしまっています。
しかし、これはこれでありです。禅の公案はそれぞれが自分の答えを出さなければなりません。他の人と同じではダメなのです。それにこれなら誰にでもできます。弱者の味方になるのが宗教ですからこれでいいのです。
では、アドラー心理学や哲学はどのように考えるのでしょう。
哲学は求め続け、考え続けることです。竿を登り続けて先までたどり着いたのなら、やはりそこでも竿の先を進む先を考えるのでしょう。本当にここが竿の先なのか、他に道はないのか、竿は見えないだけで先があるのではないかなど、登り切ってもありとあらゆる可能性を考え続け先に進もうとするのがアドラー心理学や哲学の姿でしょう。
アドラー心理学と仏教の違い
アドラー心理学、いわば哲学は常に現状に満足せずに愚直なまでに真理を追究していくのでしょう。それに比べて仏教は真理を追究(悟りを開く)しますが、見つからなくても良いし、見つかれば見つかったで元の場所に戻ろうとします。
ここが一番違うところで、アドラー心理学は共同体感覚を理想に掲げその共同体への所属感や貢献感を大事にします。もちろん常に真理を追究しますから、共同体感覚以上の理想が出現したのならそれを目指します。
仏教には共同体感覚という考え方はないように思えます。むしろ逆に出世間をときます。釈迦は地位や妻子を捨て出家して悟りを開いたわけですから、仏教徒はすべてを捨てて出家すべきなのです。しかし、竿頭進歩の解釈でみたように、悟りを開いたのちに俗世に戻ってもいいし、たとえ生きているうちに悟れなくてもなんの問題もないのです。矛盾のように感じますが出家ができなかったのならそれでもいいのです。いいかげんのようですが、つまるところなんでもよいのです。
こういった構えが違うので、どちらが良くてどちらが悪いとも言えません。選ぶのは自分です。
けれども、両方を学んでみると面白いかもしれません。私自身、アドラー心理学と仏教の両方を知って初めてこのような考えをまとめることができたのだから。
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