「一度始めたら最後までやり遂げる」という悪魔の言葉

最後までやり遂げる




道徳的で、一見正しそうな言葉

「一度始めたら最後までやり遂げる」 このような言葉を一度は誰しも聞いたことがあるだろう。しかし、これほど身勝手で高圧的で支配的な言葉はない。この言葉の問題点を今回は取り上げる。

どんな時に使われるか

家庭、学校、会社など様々な場面で使われているであろうこの言葉は、主に格下の相手に対して指導するかたちで使われることが多いだろう。人の上に立つ人間にとってこれほど便利な言葉はない。その点はあとで述べる。

また、格下の人間が自ら使う場合もある。例えば、履歴書の自己アピールだ。陳腐だが決してマイナスにはならない。その他に、何かに失敗した時の弁明にも使える。このように格下の人間にとっても奴隷根性丸出しで目上の人間にこびへつらうのに有効だ。

本ブログでは主に目上の人間がこの言葉を使う場合について考える。

 

「一度始めたら最後までやり遂げる」の恐ろしさ

もう既に使われるパターンを見た限りでも、ろくな言葉ではないことは分かると思うが、もう少し具体的にこの悪魔の言葉を見ていこう。上に立つ人間としては、この「一度始めたら最後までやり遂げる」という道徳をふりかざす時、以下のような意図を持っている。

 

中途半端は許されない

途中で辞めることは許されない。適当も許されない。完璧を求められる。

なんら問題なく最後までやり遂げられることであればよいが、ものごとはそう簡単ではない。非常に厳しい言葉である。

そして次のような意図もあるのでさらにタチが悪い。

 

苦難困難はあたりまえ

中途半端にやっているわけではないのだが、目上の人間にそう思われる場合もある。そして、言い訳しようものならこれである。

苦難困難はあたりまえ。確かにそうなのだが、あたりまえで済まされても何の解決にもならない。しかし、そのようにこちらから指摘しようものなら、次のように返されてしまうだろう。

 

努力、創意工夫すべし

達成が難しいなら、もっと努力せよ。よく考えて工夫せよ。これは「一度始めたら最後までやり遂げる」という言葉のうちに含まれている。つまり、「最後までやり遂げる」ことができないのは、努力が足りないからだ。ただ、やっているだけで、創意も工夫もないからだ。というわけである。

これも確かにそうなのだが、言うほど簡単なことではない。さらに問題なのは大概の場合、目上の人間は言うだけで、助言などはしてくれない。

 

目上の人間の問題

「一度始めたら最後までやり遂げる」という道徳を振りかざす人は、基本的に自分には当てはめずに中途半端なことも多いが、それをこちらからは指摘できない。

また、苦難困難もあたりまえだが、自分はそれを格下の人間にふるという「逃げ」を平然と行う。

そして、人には言うが、自分では努力も創意工夫もしないものだ。

決めつけのように思われるかもしれないが、周りにいる「一度始めたら最後までやり遂げる」を人に押しつける人間を見てみるといい。

この言葉は、ただ格下の人間に言うことを聞かせるために振りかざす悪魔の言葉である。

さらに見ていこう。

 



 

あきらめて投げだしてしまったら?

世の中、映画や漫画の世界とは違う。さまざまな理由で不可能に陥りあきらめることもある。しかし、ここで「一度始めたら最後までやり遂げる」を他人に押しつける人間は、きつい追い打ちをかける。「負け犬」と。

漫画の世界にも名言がある。「あきらめたら、そこで試合終了だよ」と。

あきらめることは罪であるかのような錯覚を受けるが、そうではないはずだ。あきらめずに一生懸命に創意・工夫をこらして困難に打ち勝つように努力を続けることができればよいが、あいにく人間のエネルギーは有限だ。あきらめて最初から考え直した方がよい場合もある。そうして一息つくことで名案が浮かぶこともある。

それに、あきらめたらそこで試合終了かもしれないが、あきらめなくても試合はいつか必ず終了する。その意味では「最後までやり遂げる」ことは誰にでもできることだ。

となると、次に問題になるのはその結果だ。

 

「最後まで」ってどこまで? 誰が決める?

目上の人間がいう「最後まで」は「勝つまで」という意味が込められているだろう。つまり、目標達成までだ。そしてそれは当然、目上の人間の目標であり、目上の人間が決めた目標である。

自分で決めた目標で「一度始めたら最後までやり遂げる」ことを信条としたのなら問題ない。目上の人間の目標でも自分と共通であれば、これも問題ない。

問題なのは、目上の人間が決めた目標に対し自分が「一度始めたら最後までやり遂げる」ように取り組むことである。完全に利用されているが、会社組織などでは、ありがちなことだ。

しかし、組織の中で目標を自分だけで決めることはできない。組織の目標に対して「一度始めたら最後までやり遂げる」ように決まっているなかでは何も言うことはできない。これでは組織は閉塞していく

裁量を任された場合においても

また、裁量を任されて自分で目標を設定した場合であれば、自分で挑戦していく過程で適切に目標を変更していくことも本来可能であるはずだが、目上の人間から見ると「一度始めたら最後までやり遂げる」ことに反しているとなってしまう。

状況に応じて適切に変更すること、別の方法を試すことは、この道徳からみればあきらめることと等しいのだ。だから、このような目上の人間に対しては裁量を任されていても、おうかがいを立てなければならない。

 

道徳とは結局、目上の人間の都合

ここまでみてきたように、「一度始めたら最後までやり遂げる」という道徳は、目上の人間が下の人間を従わせるための言葉の暴力である。この言葉に合理的な根拠はない。

この言葉に限らず道徳とは本来そういうもので、時の権力者にとって都合の良いことがらをあらわした言葉だ。この道徳を守ることによって最終的に得をするのは誰かを考えればわかるはずだ。

しかし、我々は知らず知らずのうちにこの道徳に縛られている。

私自身、こんな「一度始めたら最後までやり遂げる」という合理性に欠いた言葉は信じていないが、何かを始めるたびに、「一度始めたら最後までやり遂げる」ことができるかどうかを心配してしまうし、もうやめようと思ったことに対して最後までやり遂げられないことに罪悪感を抱いてしまう。

これはなぜか。やはり幼少のころからの教育によるものだろうか。

起業家の堀江貴文氏の著書にこんなものがある。「すべての教育は『洗脳』である」と。著者によれば学校教育の根本は優秀な工場労働者を育てることにあり、のちにそれは優秀な兵士を育てるためのものに変わっていったという。そういった背景を残したまま現代の教育システムが出来上がっているので、現代の教育も現代の国家に都合の良い人間をつくるシステムとなっているのだと。

誤解の無いように言っておくが、ここで言われている工場労働者は、産業革命時代のそれであって現代のものとは違う。労働基準法などない劣悪な環境で搾取されるだけの工場労働者である。そして、ここで言われている兵士は太平洋戦争時の兵士である。現代の自衛隊とは全く違う。

「一度始めたら最後までやり遂げる」という道徳は、優秀な産業革命時代の工場労働者や太平洋戦争時の兵士には必要な信条だ。現代の教育システムで育った我々もそれらと変わりないのだろう。我々は時の権力者の都合の良いように教育されているのだ。

「一度始めたら最後までやり遂げる」という道徳に縛られない自由な発想を持つべきだろう。

会社を辞めるキッカケをくれた本 『すべての教育は「洗脳」である』 堀江貴文著

2017年6月23日

 




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キタズミ!

うつ病手前になって退職したり、会社から損害賠償求められたり、逆に精神的苦痛に対する慰謝料を請求したり、アパートの退去で高額の原状回復費用を求められたり、円錐角膜という病気になったり、そんな人生をブログにしてます。 現在は仕事を探している。 長野市で開催されるコンセプトカフェイベント「ルドロウキャッスル」を応援しています。