人は過去と未来のことで悩む
過去の失敗や過ちで悩む。未来の不安で悩む。よくあることです。
過去には栄光しかなく、未来も輝かしい希望であふれているなら話は別です。
でも、そんな人はほんの一握りしかいません。
だれもかれも、過去と未来で悩むのです。
それに対する解決法は?
3つの視点でまとめてみました。
仏教でみる過去と未来
過去を追うな、未来を願うな
お釈迦さまはこう言っているそうです。
「過去を追うな、未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやってこない。(中略)ただ今日なすべきことを熱心になせ。」
極論すると、後悔や反省はするな、目的や目標を持つなということになりますね。そして、今を楽しく生きればいいのです。
キリスト教でみる過去と未来
明日のことまで思い悩むな
イエスキリストはこう言っているそうです。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である。」
今、未来のことは考えるなということですね。
過去についてはどうでしょう?直接過去について言及した言葉が見つからなったけれど、以下の言葉が過去に対する姿勢を決めていると思われます。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
「天の国」とは神の支配のことであるそうです。それが近づいたのですから、もう神の支配が始まっているわけですね。
つまり、「人間の国」が終わって「天の国」になる、神の支配が始まるのです。「人間の国」という「過去」が終わるのです。
だから「悔い改めよ」となるのですが、もはや人間の国レベルの悔い改めではありません。神の支配が始まるのですから、過去の失敗や過ちを反省・後悔してもどうにもなりません。
「天の国」=「未来」を生きろということです。
究極的にはすべて神様にお任せしなさいということになります。
もちろん「未来」のことは神様にしかわかりませんから、「未来」を生きるということは「今」を生きることになります。
アドラー心理学でみる過去と未来
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。
ベストセラー「嫌われる勇気」の中の哲人の言葉です。
仏教・キリスト教といった宗教とはちょっと違う結論ですね。そもそも、存在しないとまで言い切っております。
過去に何があったかなど「今」には何の関係もなく、未来がどうであるかも「今」考える問題ではない、というスタンスです。
そしてこんな言葉があります。
「『いま、ここ』に強烈なスポットライトを当てよ。」
お釈迦様の言葉、「ただ今日なすべきことを熱心になせ。」に通ずるものがありますね。
まとめ
三者とも表現は違えど、同じことを言っているようです。
過去や未来などのどうにもならいことを、どうにかしようとするのが間違いなのです。そしてアドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言いますから、そもそも問題は過去や未来には存在しない。
ただ熱心に今日を生きれば良いのです。
余談ですが、イスラム教もほぼ同じ考えのようですね。
イスラム教徒は未来のことを言ってはいけないそうです。どうしても言わなければならない時は、「インシャーアッラー」=「神が望まれるならば」の一言を添えなければならないそうです。つまり、人と会う時間の約束をする時も、神が望まれるならばその時間に会おうとなります。
もしも寝坊して約束を破ってしまった場合は、神がそれを望んでおられなかったからだという解釈になります。日本人には全く信じられない態度ですが、未来に対する考え方がよくわかりますね。
参考文献
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