アドラー心理学「幸せになる勇気」を読んだ ~愛とは何ぞや~仏教と比べる

アドラー心理学「幸せになる勇気」

アドラー心理学にさらに踏み込む一冊

嫌われ勇気 アドラー心理学

アドラー心理学「嫌われる勇気」から学んだ幸せになるメソッドをキーワードでまとめた

2017年7月17日

前作、「嫌われる勇気」の続編。おそらく前作を読んでいないと、本作を理解するには相当に困難。「嫌われる勇気」を読んで、まだ漠然としかアドラー心理学を理解できていないと感じたら読んだ方が良い。

本書の結論を言ってしまうと…

他車を無条件に尊敬・信頼すること、すなわち他者を愛することによって人は自立することができる。愛を知ることにより「わたし」と「あなた」ではなく、「わたしたち」の幸せを考えることができる。乱暴にまとめたが、とにかく愛することの重要性をうたった本だった。

ここで疑問が一つ

わたしは仏教系の本もよく読むのだが、仏教ではどちらかというと、「愛するな」と教えている。

アドラー心理学の考え方と仏教の考え方は似ているなと前作を読んだ時から感じていたが、ここにきて最大の違いが露見した。

お釈迦様の言葉に、「愛より憂いが生じ、愛より怖れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ怖れあらんや」とある。

そもそもお釈迦様は愛を捨てて悟りに至っている。すなわち、妻も子供も捨てて出家してしまったひとなのだ。

アドラー心理学のいう「愛」と仏教のいう「愛」。果たしてどちらが正しいのか?

愛が全面的にダメなわけでもない

仏教において「愛」の何がダメなのか。良く調べたらすべてダメというわけでもない。

ダメなのは「欲愛」。愛は本質的に「自己愛」という考え方が仏教にはありようです。

さらに「渇愛」。愛は対象に向かって執着を起こす。

愛は憎しみと背中合わせとも考えられています。

しかし、これはアドラー心理学においても、すなわち本書においても明確に否定されている。

こうした「欲」に基づいた愛より、もっと崇高な愛を唱えている。

現段階ではアドラー心理学は理想論と言わざるを得ない

本書の中でも触れられているが、第一次世界大戦を体験したアドラーは平和を望んだ結果、生まれたのがアドラー心理学だ。

まだまだ我々が実践してアドラー心理学が本当に正しいのか確認する必要がある。

確かに、アドラー心理学には希望がある。期待もしたい。

しかし、一つ間違えれば、仏教のように「愛するな」という結論に至ってしまう危険もはらんでいると言える。

どちらが正しいか、まさにこれからだ。


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うつ病手前になって退職したり、会社から損害賠償求められたり、逆に精神的苦痛に対する慰謝料を請求したり、アパートの退去で高額の原状回復費用を求められたり、円錐角膜という病気になったり、そんな人生をブログにしてます。 現在は仕事を探している。 長野市で開催されるコンセプトカフェイベント「ルドロウキャッスル」を応援しています。