人は見た目が9割などといわれますが
人は見た目である程度判断できます。確かに私もそう思うときがある。
しかし、「見た目」そのものを問題にしているわけではなく、見た目から推測されるその人の本質を、今までの経験と知識から推し量るわけであって、その人がどんな格好を、どんな顔つきをしていようが、問題ないのである。
そもそも、「見た目」だけを取り繕うのならばそう難しくない。凶悪な犯罪者、サイコパスのような人間の中には、見た目だけでは判別できな者もいるからだ。
また、詐欺師のような人間はむしろ「見た目」に問題がなく、人の「見た目」で判断する心理をを逆に利用する傾向があろう。
詐欺師の場合で言えば、見た目だけでは判断できないと言える
そんなことを踏まえながら、自身の就職活動を振り返りながら、見た目で採用する(そんなつもりはないのだろうが、結果的に見た目で採用している)企業の危険性について考えたい。
履歴書の写真の服装
一般常識ではスーツが原則
新卒で就職活動をした人には常識だと思いますが。また、転職においても原則はスーツのようです。
例外はパートの場合や、一部の職種(アパレルや建設作業員など)であるそうです。しかし、それでもスーツは無難な選択なのでしょう。
私の場合
私は今まで一切知りませんでしたけどね。そもそも、私は新卒で就職活動をしたことがなく、中途で入社しました。
中途入社の時のことはもう覚えていませんが、おそらく履歴書の写真は私服だったはずです。しかし採用されました。
それは、会社が建設業だったせいでしょう。
そして、今現在、会社を退職し新たに就職活動をする中で、履歴書に私服の写真を貼って失敗した自分がここにいます。有り難いことに、その企業からそのようなコメントを職安を経由していただきました。
私服でも許される理由
建設業の社員時代の話に戻ります。
やがて、その会社で私は人事の仕事もするようになるのですが、履歴書の写真の服装は問題にしたことがありません。
写真の顔つきから、どんな人かな、などと推測することはありますが、服装は余程奇抜でない限り問題になりません。
建設業でスーツで仕事をするのは営業ぐらいなものです。
それも理由の一つですが、もっと重要な理由は、本当に大事な問題はその人が仕事ができるかどうかであり、書類選考はしますが、余程のことがない限り面接し直接その人の能力を判断したいからです。
見た目で判断すると失敗することすらあります。そもそも、スーツを着るなど誰にでもできることであり、できていないのであっても、それを教えるのに10秒もかからないことである。
他に優れているところがあれば、それを育てたいし優先すべきです。
面接でもスーツが原則
無難なスーツ
これも一般常識としてあります。私も履歴書の写真は私服でしたが、さすがに面接はスーツで行きます。
しかし、誰もがスーツを着ていて当然の中で、どうやって優秀な人材を見分けるのでしょうか?
一流の大手企業であれば細かい判断基準があるのでしょうが、凡人の私にはわかりませんし、知りたくもありません。
しょせん見た目の印象と仕事をする能力は別なのです。
しかし、見た目や印象の与え方が顧客の心をつかむことも当然あります。けれども、その方法を教えることは仕事の成果を上げる方法を教えることよりずっと簡単であるはずです。
面接にスーツで行かないケース
まず採用されない
これはまず採用にならないことは誰でも想像できます。ドレスコードに指定がある場合やアパレル系などは問題ない場合もあるかもしれませんが、常識では通用しません。
転職においても基本NGでしょう。例外を挙げれば、建設作業員の転職などは作業着でも問題ない場合もあります。
スーツで面接に行かなかった例
たまたま読んだ本にこんな実話がありました。
岸見一郎著「アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ」より引用します。
一人の学生が自分の個性をアピールしようと思って、民族衣装を着ていました。旅行会社の面接なのですから、決して突拍子もない服装であったとは思わなかったのですが、その会社の人はその学生をちらりと見て、「あの子は絶対受からないからね」と言い放ちました。人とは違うことをアピールしてはいけなかったというわけです。
著者は講演先でたまたまこの場面に遭遇したそうですが、この学生は文章には、はっきりは書かれていませんが、落ちたのでしょう。
著者はこのことから、お決まりのスーツで面接に臨む学生は自分を「人材」あるいは「商品」とみなしていると指摘します。「人材」という言葉も、良い意味で用いておらず、他の誰かが代わりうる「材料」という意味で使っています。
同時に著者はこのような、いくらでも代わりがいる「人材」「商品」である学生を採用する企業側の問題も指摘しています。
このエピソードからわかること
企業の欲しい人材は、いくらでも代わりうる存在でなければならず、「見た目で判断する」こととは、つまり他の誰とも変わらない「見た目」=「スーツ」でなければならないのである。
さらに就職のために学生は自らの個性を殺さねばならない。
もしも民族衣装の学生が採用されたら
例えば、普通のスーツの添乗員と、旅行先の民族衣装をまとった添乗員の、どちらと一緒に旅行した方が、楽しく思い出に残る旅行となるだろうか。その答えは明白なはずだ。
民族衣装の添乗員と旅行する方が絶対に面白いはずである。
もし、そんな添乗員はけしからんというのであれば、その人は他人の個性を認めない企業の採用担当者と同じように、人をいくらでも代わりのきく「材料」「商品」としか見ていないのである。
企業が見た目で判断するわけ
従業員は企業に都合の良い「材料」「商品」でなければならない
これまで見てきたように、企業にとって、従業員は企業に都合のよい「材料」「商品」でなければならないのだ。
先に引用した著者の言葉を借りるならば、「企業は学生に『大学で学んだことはすべて忘れなさい』というようなことをいい、その企業にとって有用なことを新入社員に教え込もうと」することで、学生の個性を殺し、企業にとって従順な扱いやすい人間に洗脳していくのだ。
採用担当者の責任逃れ
もう一つ指摘しておきたいのが、採用担当者自体の問題である。
採用担当者の目的は優秀な人材を採用することであるが、既に見てきたように、「見た目」に関して言えば没個性な人材を選ぶ。
そうすることで、採用担当者は言い訳ができるのだ。たとえば採用された後で問題を起こそうが、すぐ辞めてしまおうが、採用担当者としてはその責任はないと言えるのだ。
ルールや規則に照らし、厳しい基準で採用しているのだから、採用担当者としては最善を尽くしている。だからその責任は採用後の教育担当者や、一緒に仕事をした同僚社員が悪いと、口には出さないだろうがそう思うことができる。
採用担当者にしてみれば、スーツを着用しないような「見た目」の悪い社員を採用して、あとでこんな社員役に立たない、そんな「見た目」の悪い社員を採用した担当者のせいだと言われたくないだけなのだ。
だから、責任逃れのために、本来の能力と関係のない「見た目」で採用判断をせざるを得ないのである。
そしてそのあとの責任をとらない。なんとも身勝手な話だ。
もちろん、すべての採用担当者がこのような人ばかりではないと思うが、少しばか思い当たる方もいるのではないだろうか。
「見た目」で判断することの弊害
採用などの人事だけの問題で済めば良いが、それだけではない気がするので、その点も述べる。
「見た目」良ければ、「中身」はどうでもよい?
結局、一流企業や大企業は、その就職希望者が多いせいもあろうが、「見た目」で希望者を振るい落とすしかない。
そうした見た目が良く、会社に都合の良い人材を求める企業の姿勢が、最近問題になっている、神戸製鋼の製品データ改ざんや、日産自動車の無資格検査問題につながっていると考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
最近ではあらたにスバル自動車でも日産同様の問題が起きている。
いずれの問題も、データや完成品の見た目は問題ないが、中身は安全なのかということが問題視されている。
今現在重大な事故などにはつながっていないからよいものの、何かあってからでは遅いのだ。
無個性で見た目だけが良い社員を採用した弊害であるともいえる。彼らは、没個性の彼らには見た目を良くするだけことにしか価値をみいだせないのではないか。
これらはあくまで推測でしかないが、企業が「見た目」で人を判断することは相応の危険をはらんでいる可能性があるのは確かと言えよう。
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